たとえば、内閣府は前々から、日本の人口問題対応について「今が正念場」と語ってきた。2010年代わが国の出生率には下げ止まり上昇傾向の気配があった。しかし、感染症騒動があってからは再び低下傾向が明白になり、昨年度(2022)は統計史上最低の1.26に落ち込み、本年度推定もさらなる低下が見込まれ緊張感が高まっている。
そうしたなか今夏に公開された国立社会保障・人口問題研究所による最新の人口推計(『日本の将来推計人口(令和5年推計)』)によれば、現状維持で50年後にやや高い出生水準(1.36)になったと仮定しても、そのときのわが国の人口構成の形状はまさに逆ピラミッドを呈することが導きだされている。
同研究所による推計値はさまざまな条件下での結果を出しているが、ここではそのうち2つを選び、それを造形し比較した。ひとつは死亡率と出生率がほぼ現状維持であった場合である(同研究所の表現では「死亡中位、出生中位」)。この場合、2070年度の推定合計特殊出生率[日本国籍の出生数を15〜49歳日本人女性人口で除した値]は1.36になっている。
もうひとつは死亡率は現状維持だが、出生率がやや上昇した場合である(やや上昇とは2070年度推定値1.64(同研究所の表現では「死亡中位、出生高位」)。この出生率は決して無理な値ではなく過去を振り返ると、1980年代並みへの上昇ということになる。
下の写真が両ケースについて制作した2つの構造体である。左が出生率現況維持ケース、右が出生率上昇のケースである。見た目すぐにあきらかだが、会場ではこの模型を手に取って再び置き直してみることができるようにした。そのため見た目だけでなく、触覚的、筋運動感覚的にも安定感の大きな違いを感じとることができた。
出生率現況維持 2070年の状況 | 出生率上昇 2070年の状況 |
出生率現況維持ケースはかたちがスマートで魅力がありそうだが、むろんそういう話ではない。キノコのようにとても頭でっかちになっている。これをピラミッドと呼ぶとしたら、逆ピラミッドと呼ぶしかない。キノコの軸の根元は子どもと青年、その上が痩せた生産年齢層、大きく厚い傘は高齢者。これは現在の若者たちが高齢者になったときの、いまのままで進んだ場合の行き着く先の見通しである。
このかたちは比喩的にいえば、子どもたちが年寄りたちの重さで押し潰されるか、人口構造そのものが転倒するかの危機を感じさせる。人口構造の転倒とは、言い換えれば国という単位での組織体が立っておれずに倒れるということである。痩せた生産人口と重い社会保障人口のアンバランスをみれば転倒も比喩とはいえない。少し以前にこの先、東京都のなかで出産可能期の女性が激減して人口が維持できなくなる消滅危惧区として豊島区があげられ話題になった。半世紀後にはそれがこの国そのものの話になるということである。
とはいえその危機はまだ半世紀も先の話なのだろう、ではないのがこの話である。そうなった時点では手遅れで、これはたった今、向こうに捉え見えた大津波という話である。だから逆にいえば、この危機はいまから手を打てば解決できることで、その瀬戸際にあるということでもある。「今が正念場」といわれるゆえんである。
ただし、上のモデルの左の構造の条件「現状維持」とは、いまの出生率が保たれた場合ということである。実際のところ、前述のように、現況は出生率が減少しつづけているから、その減少がつづく、ということが「いまのまま」と解釈すると50年後はすでに誰も子どもを生んでいないことになる。実は50年どころではなく、たとえば、2020年とその翌年を比較すると出生数は29013人減少しているので、この減少数がそのままつづいたら(というより実際、2022年出生数は前年よりさらに大きく減少し約4万人減少したのだが)、28年先において出生数は0を割る。つまり、瀬戸際とか正念場どころではない状況にあるのだ。
ここでデータソースに用いた人口問題研究所の『日本の将来推計人口:令和5年推計』にはつぎのような一文が記されている。
「これは、もし予期せぬ事態(災害、経済変動等)が起きず、さらにわれわれがこれまでの流れを変えるような新たな行動をしなかった場合に実現する人口の将来」
であると、そのうえでつぎのようにも記している。
「何よりわれわれ人間は、しばしば望ましくない予測がその通りに実現しないように行動するのであるから、この場合の予測に求められる正確性とは、その通りに実現するという性質ではない 」
いうまでもなく前者の「新たな行動」は後者の「望ましくない予測がその通りに実現しないように行動する」と重なるはずである。が、ここでその行動の主(あるじ)は誰なのか、言い換えれば、「正念場」とは誰にとってのことなのか? という点が要点であるはいうまでもないだろう。
少子化と高齢化はずっと以前からいわれてきたことである。いまや国民の誰もが知り実感もしているはずである。国策も地方行政もむろん無策だったわけではない。この問題が問われる場では「国として自治体としてどのような対処・対策が講じられているのですか?」といった他人事めいた問いかけがいつもむろんあって、その応えには過去からのさまざまな施策が列記されつづけている。なかにはそれらに一定の効果をみたといった記述がデータとともに示されてもいる。しかし、いずれも現況の事実をみれば、焼け石に水であったことがわかる。異次元の少子化対策にしても、端から政策批判の対象としてとりあけ、実効性に疑念を浴びせてしまう始末である。こうした事態からわたしたちが理解しなければならないことはなにか。そのことももはや明白だろう。
つまり、これは国とか自治体の責任、すなわち対応可能力(responsibility)を超えた問題なのだという事実確認である。そこにこの問題解決を求めてもかなわないことだと解する必要があるのだろう。これは行政課題でも政治課題でもなく、さらにいえば行政や政治が責任を担えることがらではないということである。解決が委ねられている主体が、いわれたからするというような主体性を欠くような営みのことではない、という最もプリミティブなところでのほとんど無条件反射に近いものがあって、そこでの抵抗が、ことを阻害しているのだろう。
だから、自分たちでみつめ、自分たちで考え、判断し、行動するしかない。この大津波はそういう次元の対応問題としてある。誰かの問題ではなくわたしたちの直の問題である。だからこうした公共圏において、まったくプライベートな主体によるこんな「おっと! 人口ピラミッド展」のような機会形成を図り、そのわたしたちの次元での公共の問題を確認しあい、考え、行動しようというわけなのであった。
わたしたちはいま、有史以来はじめて民主制(democracy)とか民主政(democratic politics)とはちがう民主主義(democratism)という力への信念行動の発動が試されるときを迎えたとも思われる。このことは機会をあらためて述べることにしたい。